先日(令和元年7月19日)の答申で三木市にある黒田清右衛門商店が登録文化財となることが決まりました。江戸時代から続く金物問屋で県指定文化財になってもおかしくない建物です。今回の登録調査したなかから概要を抜粋して上げておきます。
概要
黒田清右衛門商店はその勃興期から現在まで営業を続けている唯一の金物問屋である。黒田家は古くから苗字を許された旧家であり、宝永4 年(1707)三木町が下館藩黒田直邦の領地になった時に改称し、当時の三兄弟がそれぞれ桝屋、作屋、松屋と称している。
初代作屋清右衛門(1735-1793)は明和2 年(1765)に分家独立し金物問屋を創業している。三木金物仲買仲間を結成、その中核となり二代目の頃には江戸と取引をするようになる。それが三木金物の評判が全国に広まった要因の一つである。
また三木町は町民自治が許された町であり惣年寄が町制に当たっていたが、黒田家も惣年寄を担うこともある程の有力町人であった。七代目黒田清右衛門(1885-1964)は三木町会議員、美嚢郡会議員、三木町長、兵庫県会議員を務め地域の発展に尽力した。
配置
黒田清右衛門商店は上町(かんまち)から続く街道、ひめじみちの南側に建つ。街道の北側には本家筋の屋敷(現在の所有者は別)が建ち、東側は分家筋の屋敷が隣接する。南側は本要寺が隣接し、西側はかつて小河家の本宅が建っていた。
敷地は東西約25m、南北約35~40m。およそ五角形をしており二筆から成る。内蔵、離れの建つ部分はかつて中町に属し、大部分は上町に属している。
街道に面した敷地の北東端に主屋が建つ。同じく西端に内蔵が建ちその間を外塀がつなぐ。主屋は店舗居室部と座敷部から成り、座敷部は居室部の南西にせり出す。内蔵の南側に離れが建ち、主屋と離れ、内蔵、外塀で囲われた前栽(せんだい)が構成されている。敷地の南には蔵がコの字に建ち並ぶ。
主屋の南にはコンクリート造の建物があるが、かつてこの場所には木造平屋建の台所が建っていたという。
店舗兼主屋
東西桁行約6間、梁間約8間、木造二階建で二階の上に虫籠窓を持つ小屋裏を持つ。切妻造、瓦葺の平入の建物である。屋根は大屋根の街道側及び厨子二階屋根は本瓦葺、中庭側は桟瓦葺であり、軒裏、垂木共塗籠められ、街道側厨子二階の両端には袖うだつがある。街道側下屋は桟瓦葺、軒先は銅製の樋が野地板の上に設けられている。下屋の軒裏は垂木、野地板顕し仕上である。この下屋には大鋸の看板が上がっているがこれは三木のシンボルとして広く紹介されている。
正面二階及び小屋裏外壁は大壁黒漆喰塗、虫籠窓が二階3ヶ所、小屋裏3ヶ所ある。一階外壁は真壁黒漆喰塗腰杉板張りであるが、街道側大部分が連子格子の内側に木製ガラス框掃出し窓、駒寄せが取付く。入口も二連引込みガラス框戸である。また両妻面は白漆喰塗で瓦葺の霧除け庇が付く。
この棟は何度か大きな改装をしているが、当初の建築年代は不明である。明和2 年(1765)、初代清右衛門が本家から独立する際譲り受けた内容の記録、「譲り渡申一札之事」によると屋敷は「表口5 間2 尺5 寸、裏口8 間4 尺8 寸、裏行22 間1 尺2 寸」とある。しかし表間口は現在のものとほぼ同じだが他は若干異なりこれ以前ものとは言い難い。また三木金物問屋資料の屋敷境界証文扣(P59)に「寛政元年(1789)二月建替」とあるが現存する屋敷かは定かでない。三代目の時代(在1814-1837)、藩の切手会所開設に関わりまた切手方の役を担うなど、一代限り名字帯刀を許されており、三階建に見えるこの建物はこの地位になった以降、江戸時代末期に建てられたのではないかと考える。
離れ
敷地の西端で敷地に沿って建つ。平家建の書斎部分と二階建の座敷部分からなり、それぞれ平面軸を異にする。構造材、柱は栂、梁は松。昭和2年に建てられたと伝わるが、七代目黒田清右衛門が三木町長に就いていた時期に当たる。客を泊めたりする場として建てられたと伝わる。
内蔵
内蔵は敷地の北西端で敷地に沿って建つ。北面は街道に面し、南側は離れに接する。街道は敷地の前面で湾曲し、東から来ると丁度内蔵がアイストップになり景観の重要な要素となっている。
土蔵造二階建、切妻造、桟瓦葺、妻入、桁行2間半、梁間2間の建物である。外壁は白漆喰塗腰杉板張り、前栽側は奥行き半間強ある銅板平葺の軒が備わり、腕木方杖によって支えられている。大戸口前には石段はない。扉枠は木製、扉は木製鏡板の引き分け戸と網戸の2重である。
外塀
敷地の北側、街道に沿って主屋から内蔵まで伸びる高塀であり、街道と前栽を仕切っている。三木は街道に面して広い間口を持っている屋敷は少ないが、街道に面して庭を持つ家は高塀で仕切られていることが多い。黒田清右衛門商店の外塀も街道沿いの良好な歴史的景観を形成している。
全長約6.5m、高さ約3.3m。桟瓦を載せ前栽側は奥行き半間強、銅板平葺の軒が備わり、腕木と持送り金物によって支えられている。かつてこの下に主屋から内蔵へつながる廊下が備わっていたと伝わる。壁は真壁黒漆喰塗腰杉板張り、一部外開きの木戸になっており、廊下が備わっていた時代はその部分取り外しができるようになっていたという。明治時代後期の写真にもその姿が見られるが現在のものより低く、現況は軒が内蔵の軒と連続していることからも昭和2年に建替えられたのではないかと推定する。
黒田清右衛門商店と三木町の金物産業の歴史についてはこちらの本も参考になります。