「けんちく広場」の『電柱はなぜ無くならないの?』にTB。
例えば、街の何処にでもある電柱。普段、私たちはそれがあるのが当たり前という世界に住んでいます。
が、ヨーロッパでは、無いのが当たり前。
邪魔で不細工この上ない代物です。
ヨーロッパと言えども郊外に行けばたまに電柱を見かけることがあります。確かに街なかでは見かけません。でもよく見ると電線は見かけることが多いです。
(写真はバルセロナ郊外のタナゴラ)
古くから続く街では電柱の代わりに建物から建物へ電線を渡していることがよくあります。たてものに這わしていることもよくあります。もちろん地下に埋設している例も多いでしょうが、地下に埋めずともわりとすっきりしている気がします。
ただ、景観の観点から「何故日本から電柱がなくならないのか」と言う前に、本当にヨーロッパでは景観の点からこのようにしているのかということに疑問を感じます。
もし景観の点から電柱をなくしたのならば、このようなアンテナの林は許されないのではないかと思うのです。(写真はバルセロナ、グエル邸の屋上から見た景色)
こちらはお椀が並んでいます。
電線は公共事業でアンテナは個人所有だからということがあるかもしれません。でも景観に対する意識の問題だけではこの情景はありえない。電柱を立てなくても済む土壌があったはずです。そのあたりも含めて真似ることができるかどうか検討する必要があると思います。
個人的には景観問題を語るときに単に「電柱をなくせ」という話題は嫌いです。確かにないほうが気持ちいい。特に最近は電柱に対する電線の数が(光通信ケーブル他)増大して更に見苦しくなっています。でも「景観問題」→「電柱をなくせ」というのは、「景観問題」→「高さ規制」と同様、合言葉のように分かりやすいがその問題だけしか見えなくなり、付随している様々な問題が消えてしまう気がします。
「電柱」が悪いのか「電線」だけならいいのか。「街灯」「信号」「標識」ならいいのか。そもそも電柱はデザインできないのか。「看板・広告」は全然問題ないのか・・・・こういったことを考えた末にでる「電柱をなくせ」という話は意義あると思いますが、どうも「電柱さえなくせば景観問題はうまくいく」という幻想があるように思えてならないのです。