『つくられた桂離宮神話』

 井上章一 著『つくられた桂離宮神話』読了。
 以前読んだ『美しくなれる建築なれない建築』でも称賛されていた本。ドイツの建築家、ブルーノタウトが発見したと言われる桂離宮。時代を追ってその評価がどのように変わっていったかが書かれている。
 桂離宮は何も変わらない。しかし、時代と共にその評価、焦点が変わっていくのが面白い。また建築界、美術界、文芸界、大衆といった違いによってその流行(?)の伝達速度や伝達順序があり、それらが交錯するなか噂だけが独り歩きしている部分があるという。
 おそらく現在も同じようなことが起こっているのだろう。マスコミによって発せられたニュースや意見、感想は伝わるうちにねじ曲げられて届いている。特に昨今のようなインターネットを通じて誰でも情報を発信できる状態ではなおさらだ。
 最近は新聞、テレビよりもネットの口コミの方が先に伝わっていることが面白い。


 評価が変わっていくと言ったが、この本は冒頭で著者が「桂離宮の良さがよくわからない」で始まりながらも、桂離宮を批判する意見は数少ない。様々な焦点、思惑から意見は変わるが桂離宮がイイというのは変わらないようである。
 そして次のような文章で前半を締めくくっている。

 ここにいたり、桂離宮は古典になった。読みとりや解釈が時代とともに変更されても、価値認識だけはうごかない。日本美の精華としてたたえつづける。そういう古典芸術になりおおせたのである。

 この「古典」というキーワードはいづれ考えてみたい。
 後半は一般大衆にどのように広まったかを検証している。
 その中で専門家の研究書と観光案内書の違いについて述べられている。専門家は構成上の芸術性を説明するが、案内書はディテールの説明や故事来歴を重視するということだ。
 なる程、住宅雑誌等に作品を掲載するときにキッチンのメーカーや水栓のメーカーを記入しなければならないのはこういうところにあるのか。
 逆にそういう時に書く文章はディテールの説明や、どこの木を使っただの説明が喜ばれるということか。
 しかし、こうしてみるとつくづく「建築とは言葉である」と感じる。