濱田昭生 著 『宮本武蔵は名君小笠原忠真の「隠密」だった』
剣豪 宮本武蔵は明石城下町の町割りに携わったとされている。しかし剣豪がなぜ土木事業に携わったのかという説明は聞いたことがない。現在明石でも宮本武蔵がつくったという庭が残っていたりするが、剣豪がつくったということで有難いのかと気になっていた。
書家、画家、文豪としても評されている宮本武蔵は一体何者なのかという疑問に新説を投げる1冊。
中身は宮本武蔵が巌流島の戦い以後剣豪としてではなく如何に活躍したかという内容。それよりも初代明石城主 小笠原忠真(織田信長と徳川家康のひ孫)の活躍についての方が詳しいかもしれない。
まとめると
→宮本武蔵、大坂夏の陣に水野勝成の軍にて東軍に参戦。水野軍に本田忠政軍もいた。
→水野勝成、城を焼き払われた大和郡山を与えられる。城野再建、城下整備を宮本武蔵も手伝う。
→大阪夏の陣以降西の最前線姫路城城主池田輝政、二代目利隆が相次いで死去、姫路に本田忠政が入る。本田忠政に宮本武蔵が接近。
→本田忠政が姫路に入る際、既に姫路城が完成していたので石高を下げるため姫路藩を分割。明石藩に小笠原忠真が入る。西国強化するため明石城築城命令が幕府より下る。
→小笠原忠真の正室は本田忠政の娘(亀姫)であるところから本田忠政と近く、その縁で宮本武蔵が明石城下町の町割りを手伝った。
→本田忠政が亡くなったため、武蔵小笠原忠真に身を寄せる。
→外様大名の席巻する九州で熊本加藤忠広改易、島原の乱など騒動が続く。九州鎮護のため小倉の細川忠利(正室千代姫は小笠原忠真の妹)が熊本に、小笠原忠真が小倉に移った。そこに宮本武蔵もついて行った。
その後、九州では大きな争乱がなかったのだが、それは小笠原忠真が未然に防いだからだと本書はいう。そこに宮本武蔵が熊本細川藩に仕えたことが関係するということが述べられている。
宮本武蔵の生涯よりも、江戸時代初期の大名の動き、小笠原忠真の静かな活躍についてわかりやすく説明されている1冊であった。