三木市の主要産業は金物である。
「三木町略史」によると別所氏が三木城を築城した頃…定かでないが瓦大工として名高い橘氏一族の清川神左衛門が定住したと考えられる文明14年(1482)~長享2年(1488)には三木に多くの木工匠が住んでいたとされる。
イ、三木の町が、町らしく出来たのは別所氏の築城による城下町建設のためであったと考えられる。
ロ、別所氏は、城下民のための職業として木工匠を奨励、保護したようである。
ハ、この木工匠に使われる道具の製産が、いまの三木の利器製産の始まりと考えられる。そしてそれは、長享二年頃にはもう多少とも造られていた。
別所氏が城下民として染め屋や木工匠を住まわせ、税を赦免してきた。また三木城落城後、秀吉は三木の復興のため赦免地とする制札を即日たてたということだ。
それは徳川時代に入り、領主が代わっていっても町民が嘆願によって赦免地であり続けることができたという。
ところで、なぜ三木の町で金物が製産されるようになったのか。
「三木町略史」による考察が面白い。
誰も知るように、三木の製品の主原料である鉄鋼は三木に産しない。又加工に使う木炭が豊富にここでできるわけでもない。
次に販売の方に眼をむけてみると、京都、大阪に比較的近いといえば近いが、それらとの交通を考えてみると山にさえぎられていて、それらの郊外である摂津や河内の平野の方がはるかに便利で有利なところであることはいうまでもないことで、同じ播磨にしてももっと海岸に近いところの方が交通が都合が良いわけである。
するとこの発展の原因は、原料の入手や、交通や、製品の消費地に近いからというわけではなく、他に考えなければならない。それは、やはり三木の最初からの特典であるところの赦免地であるということ、農産も多少はあるが、他に特殊な産物が考えられないこの土地柄から、一応三木の特産物として知られたこの産物に対して、製産者は一心に製品の改良と増産につとめ、販売業者は秀れた商才を利用して専ら熱心に商いにつとめたので、この両者組合された力によって漸次発展してきたと解するより致し方が無い。
つまり、三木の町で金物産業が発展したのは年貢の赦免地であったためで、たまたま芽生えてきた金物の製産業が少しずつ大きくなっていったということらしい。
しかし、原料の調達も困難で販売ルートにも不利な地域で製産するわけであるから、材料の調達、一括発注、独自の販売ルートを確保していった問屋の功績が大きいということだそうだ。