『三木町略史』から(2)

「三木町略史」によると、赦免地であった三木城下町に木工匠が集められた。「三木大工」として広く出稼ぎをするようになり、また出稼ぎ先で定住するようになった。しかし大工道具は三木産のものが広く使われ続け、出稼ぎ先や定住先でも広められてきたそうだ。三木の金物が秀でていたためであろう。
しかし、いくら秀でていてもそれだけでは産業に成り得ない。問屋の出現が重要な役割を果たしたようだ。

鍛冶屋は専ら製産することに余念はないが、問屋は各地に売出して販売すると同時に、その頃資本力に乏しかった鍛冶屋に材料、生活費を与えて、その製品を一手に買込んでいった。鍛冶屋側になると、遠い土地にいる大工やら道具屋と取引することは、色んなことで困るので、材料を与えてくれて、必要な生活費がすぐもらえる手近な問屋との取引を望んだことはあたりまえで、鍛冶屋と問屋とのつながりはこのようにして生れ、そして増々盛んになっていき、この形は永らく続いていった。
(中略)三木産の工匠具が、地方に売られる目的で本格的に生産されるようになったのは、天明(1781-1788)頃から寛政の始め頃にかけてのことであったと察しによいであろう。

問屋制家内工業の出現であり、鍛冶屋の工程も細かく分業制になっていったようだ。江戸時代に確立された生産機構の前例は小野の金物や算盤産業ほか周辺の地域にも影響を及ぼしたことが「播磨の地理」 人文編 に記されている。

「赦免地の存続」と「問屋制家内工業」、これらに発する潜在意識は三木の町なかに今も気配が感じられることを忘れてはならない。