『三木町略史』から(3)

さて三木の赦免地であるが、多くの本には三木落城後秀吉により地子諸役免許の町となったことが書かれてある。これは徳川時代幾度も地子免許状や秀吉の立札をもって新しい領主に赦免地であり続けたことが記録されているので事実であろう。
しかし、それ以前はどうであったか。

別所氏が早くから城下に赦免の特典を与えて保護したことは、別所氏滅亡と同時に秀吉がたてた制札の文面によって解される筈である。

「三木町略史」では戦国武将が城を築いた時には城下町も築いたことと秀吉がすぐに以後も赦免地にする旨を伝えて町民を呼び戻し復興を行ったことから 別所氏の頃から赦免地であったと想像している。

ところでもう一つ三木には赦免地について伝説がある。菅原宗賢の伝説である。

鎌倉時代には、街道筋に住まいした菅原宗賢が、旅先で僧の姿をした北条時頼に出会い、旅をともにしたことから友情がめばえ、その縁により三木の地が免租地となったと伝えられています。

三木市観光協会のページ

北条時頼は各地に廻国伝説が生まれているの。三木市に残る秀吉の制札や別所氏の扱われ方に比べ大きくないので後世につくられた話である可能性は高い。徳川の時代に秀吉の、別所氏のというより北条氏のといった話を持ちだす必要があったかもしれない。それでも「赦免地」ということが重要であったという資料につながるであろう。