有機的なスキマ

 先日の記事にakanemさんからいただいたコメントの中で「ますますゆとり(隙間)のない窮屈な世の中になっていきそうだなあ」という言葉が意に留まります。
 今読んでいる本、吉田桂二 著『日本vs西洋 建築の「かたち」が決まる理由—空間の謎を解く』(「住の神話」改題)の中で、街づくりのスキマについて述べられている項があります。

・・・・都市計画にはイギリス流と北欧流があって、イギリス流は完璧につくるけれども駄目であり、北欧流はその反対なのだが、町というのは完璧につくってはいけないものなのだ、という主張をまじえた彼の分析だった。
<中略>
 彼の分析によれば、例えばニュータウンをつくる場合、イギリス流だと、さまざまなタイプの集合住宅群を配して、その中心にショッピングセンター、学校、病院、集会所、交通施設などをおき、これらの規模やその配置計画、交通計画などは計算しつくされた完璧さで隙もなくつくられるのだが、北欧流はこれと違い、つくるべきものはつくるけれども、故意にあちこちを空白にしておくのだそうだ。ニュータウンに人が住み、町が機能しはじめて年を重ねてゆくと、こうした空白がごく自然に何らかの機能をになって町化するという。ある場所には一戸建の家が建ち、またある場所には個人商店が建つなどして、年とともに町は有機的な姿になってゆくわけである。
<中略>
 しかし、一見したときの町の美しさはイギリス流に分があるだろう。イギリスのニュータウンには確かにとぎすました美しさが感じられたが、コミュニティの集会所をのぞいてみると、ガラス張りでモダンな建物の中は、壊れた家具屋ガラクタが山と積まれていて、完全に物置と化していた。

 
 「都市計画」というと何もかも敷地を埋めてしまわなければならないような錯覚をおこします。空いている土地といえば「公園」という名を付けて機能を持たせようとします。公園ならば遊具が必要とパンダやウサギが座ります。(動く遊具は危険だそうで今は管理が大変なので撤去します。)
 スキマ(ゆとり)というのは常に空けておくモノではなく、埋められるために存在するという発想が重要であると感じました。
 そして「有機的な姿」というキーワード。スキマが埋められていくプロセスが埋める目的だけであれば、決して有機的にはならないでしょう。建物が建っても空家のままだったり、店ができてもはやらなく次々に店子が変わったり・・・・
 「有機的である」ためには周りとの関係性を考える必要があります。その地域の中で、この場所はどうなるのがふさわしいのか。それはその場所だけを見ていては解決しません。関係性を主に考えるから「有機的な姿」になりうるのです。
 美しいイギリス流より有機的な北欧流がなぜ良いのか。結局誰のための都市なのかということ。企業のための街ではなく、経済のための街ではなく、議論のための街ではなく・・・・人間という生物のための街であるからというところに行き着くのだと思います。