「内部」の単純な吐露ではない

青木淳氏のサイトより『「アルマジロ人間」についてのコメント』を読んだ。
以前、アルマジロ人間の作者のサイト「ほんとうのアルマジロ人間」を読んだときは青木氏のとった行動については疑問を覚えたが、こうやって双方の話を並べるとよくわかる。
この件について、事実関係や争点など当事者でないとわからないことばかりなので、私がどうの言うことはない。
ただ、「青木氏のコメント」にとても共感した。


13ページにわたるpdfファイルだが、大半はコトの経緯でどうでもよい。
11ページ「9.青木事務所」の項:青木事務所に限らず、建築家、そしてアトリエ事務所というものがどういうモノであるか、いかにしてケンチクが創られるのかが的確な言葉で著されている。

 建築は、それがつくられる場所の条件やクライアントの要望に応えるものです。すでにその時点で、建築は建築家の「内部」の単純な吐露ではありません。「外部」を相手にしています。
 クライアントの要望の本当のところは、そのクライアントにしかわかりません。建築家ができることは、その「外部」を自分なりに解釈することによって受入れることだけです。(中略)スタッフの提案もまた、その提案の個人的理由が伺い知れないと言う点で、建築家の「外部」にあります。人それぞれが、それぞれの生を生きています。「外部」はないと錯覚することからは、建築は生まれません。建築とは、それとは逆に、そうした多くの「外部」をその建築家なりに解釈することによって受け入れ(あるいは拒み)、その解釈に基づいて、それらを矛盾なく内包できるひとつの物理的なものに統合するという行為であり、その行為に対して建築家の名前が署名される、と私は考えます。

「内部」の単純な吐露ではない”そして多くの提案の中から受け入れ、拒む作業・・・・

しかし、その採択はスタッフの判断でも、多数決でもなく、解釈と統合の目処を前提とした私個人の判断によるものです。

 自分のやっているコトに意味がついたように感じた。ごくあたり前のコト。わかりきっているコト。でもこうやって言葉にされると嬉しくて涙が出そうになる。
・・・・間取りを決めたら自動的に図面が立ち上がるようなモノではないのだよ。