建築は「引き算」か「ご破算」か

nikkei 「Techi-On!」先月の記事『「日本は引き算」だからできること』が面白かった。
日本的な水墨画や木彫は消したりやり直しができないところが西洋の油絵や彫塑(粘土)と異るというのだ。

 西洋的なものを塑像、日本的なものを木彫とすれば、やはり同じことが言えるだろう。塑像は粘土で作るので、削りすぎれば盛ってと、修正ができる。ところが木彫は、基本的には削る一方で、削り過ぎても修正はできない。つまり、「前進後進を繰り返しながら最善の結果を求める」のが西洋流で、「前進一方で一気に完璧な結果を出そうとする」のが日本流ということか。

本文中の日本の古建築は「一度作ってしまったらもう手を入れない」といのには疑問を感じるところもあるが、「いきなり完璧」を追い求める日本のものづくり気質という点には納得してしまう。しかし本当は「修正を認めない」という気質は根底にある気がするが。
日本人は試行錯誤しながら最善の結果を求める気質がないわけではない。改造やカスタマイズは大好きだと思う。工夫するということについては西洋人に劣る気がしないのだが、問題があった場合「少し後進してやり直す」という選択肢が極端に閉ざされている。
そのような場合は「一からやり直せ」というのが根底にある。「引き算」ではなく「ご破算(ごわさん)」である。
さらに『失敗はなかったことにする』というのが美徳なのかもしれない。
先頃建築基準法が改正され、確認申請の書類に訂正が認められなくなった。(あまりにも厳しい状況だったので最近緩和されつつあるが)この完璧をめざすあたりはまさしく日本的気質であるような気がする。設計に関する決まりは厳しくなり、設計士は全く信用がないかのごとく扱われた法改正であるが、実際の現場で生じた不具合に対する解消法は依然として出ていない。もっとも不具合の状況というのは様々であり、法で決められるわけではないが、その対応を判断するのは(信用がない?とされる)設計士である。(決められても困るけど)
入口のところが細かく規定されるのに、実際の運営のところでその調整法が決められていないところに「失敗があった場合は一からやり直し」という気持が根底に見える気がする。
古い建物の取壊し計画やそれに対する保存運動の話題をよく耳にするし、また関わったりもしているが、取壊し計画の根底にあるのも「新しいものは必ず今よりもいいモノである」という幻想があるようである。
「今あるものが使えない」≒失敗であるからやり直しをするのだ。そして先の幻想があるから取壊しの計画を実行する。
それが失敗なら?・・・・もちろん『失敗はなかったことにする』のである。