加古川レンガ工場取壊しに思う

東京駅の丸の内口の赤煉瓦駅舎が復原され10月1日からリニューアルオープンされる。施された装飾も価値があるが、赤煉瓦の材質を活かしたフォルムは懐古的というだけでなく、現代の感覚でも人々に支持される美しさであるだろう。かつては取壊しもっと土地を有効活用すべきという意見もあったが、こうして建物の意匠的な価値を重視した改修が行われた。

加古川市にあるニッケの工場跡は明治32年(1899年)創業された煉瓦造群の建物である。一部は県道や加古川土手からその姿を望むことができ、100年以上も続くいい景観である。しかしこのたび敷地は加古川市に売却され市民病院が建設されることになっている。
関連記事『明治期のレンガ塀や倉庫見納め 旧加古川工場跡地』(2012/08/19 神戸新聞)

なぜ「更地の状態で引き渡し」という契約になったのか。全保存は機能的に不可能だということは想像できる。では外部に対する景観、病院という癒しを求める施設ということを配慮して一部を残し、活かそうという可能性を出すことはできなかったのか。
事業はPFI方式で行われている。市民病院といえども民間業者が経営等も含め提案、運営していく。景観とか憩いという市民サービスの概念は必要ない。そういうものは初期費用を上げるだけの荷物である。市民サービス全体を考えれば必要であるが、市民病院だけで考えれば必要ないのである。

では市が条件として建物の一部活用を入れる事ができなかったのか。
おそらく医療問題に対して景観問題があまりにも小さすぎた。市民にとってレンガ塀はそれほど重視されていなかった。広い加古川市全域から考えればその存在を知らない人も多かったのではないだろうか。

市民が知らなかった、関心がなかったということは加古川市の地域性に起因する気がする。
加古川市の中心部、加古川町は明治22年(1889年)に町制施行をしたが、戦前に鳩里村、氷丘村を編入、戦後昭和25年(1950年)に神野村、野口村、平岡村、尾上村と合併し市制施行している。その後も別府町、八幡村、平荘村、上荘村、東神吉村、西神吉村、米田村の一部を編入、昭和54年(1979年)志方町を編入して現在の市域ができている。市域のほとんどが戦後合併、編入された地域であり「別の地域感」が残っていることが想像できる。
また戦後加古川市は神戸、大阪のベッドタウンとして、また工場の従業員として他から移り住んできた人が大多数を占めるようになってきた。元々あった地域の歴史にそれ程関心をもつことがなかったのかもしれない。高度成長期は古きものを捨て新しい生活を謳歌する時代であった。

歴史といえば加古川は古くから歴史上重要な土地とされているにもかかわらず、歴史の物語の中にはあまり登場しない。古くはヤマトタケル神話から聖徳太子と鶴林寺の話、宮本武蔵の伝説など所々話は出てくるが、大きなストーリーの中で重要な場面は聞かない。城下町として発展したのではなく加古川の舟運による商人の町として発展したことが大きいからだろうか。歴史上のシンボルがあまり見えない。文化財は数多く保有しているのになかなか市民に浸透していない状態だ。これらが新しく移り住んできた人たちが歴史遺産に関心を持っていない理由の一つではないかと感じる。

実は新しく移り住んできた人は他の地域との比較が容易なので歴史遺産を発見、興味を抱くことが多い。長年地元に住んでいる人の方がその価値を知らずにいることが多いのである。
それでも今回レンガ工場がそれ程大きな問題にもならず取壊されるということはどういうことだったのか。今後のために覚え書きしておく。